宇宙のお話11「生きる事と煩悩2」

 

なかよひ370

イラスト:今井宏枝(旅うさぎより)

「煩悩」について掘り下げてみたいと思います。

「ぼんのう」という言葉は印象が良くありませんね。
なんだか人間として失格のような、きちんとしてないような、欲望丸出しのような印象です。
しかし、煩悩というものがなければ動物としての生命維持が難しいのではないでしょうか。

 

仏教で言うところの煩悩にはこんなものがあります。

欲、嫉妬、怒り、憎しみ、恨み、高慢、卑下慢、見栄、落ち込み、舞いあがり、不信感、不安感、優越感、劣等感…などなど。

まぁ、どれも印象は良くありません。
しかし世の中に無意味なものはないと思います。
普通に生活していると、これらの感情が珍しくない頻度で現れるようになっているのです。

 

動物が生命として地上に存在するために、まず何が必要だったでしょうか。
食べ物を食べることだとします。

食べ物が豊富にあれば問題ありませんが、少なくなってきたり、冬が来たりして、
全ての個体が食料を得ることが難しい場合があります。

ここで食料を得ることができる個体は、おそらく喧嘩で買って食料にありつくか、
特殊能力を身につけて他の動物に邪魔されずに食料を得るか、
頭を使って食料を自分のものにするか…などなど。
また草食動物であれば、臆病になり不安感を持つことがいち早く敵を察知することが、生き残る手段になります。

 

そんなピンチの時、その動物にはどんな感情が湧いているでしょうか。
獲物を食べているライオンの近くにハイエナがやって来たとしましょう。
ライオンはすごい形相でガルルルルル…とハイエナを威嚇します。
言葉にするときっとこんな感じです。

「この獲物は私のものだ!絶対に渡さない!近づいたらコロスッ!絶対この肉食べる!!」

激しい「執着」に「攻撃性」、「独占欲」…煩悩の塊です。
獲物をゲットするために他の動物も殺していますしね。

 

また、シカや羊が群れで生活し、いつもビクビク周りに気を張り巡らしている時は
「敵が来たらどうしよ〜〜。怖くて一人でなんか行動できないよ〜〜」
という感じかもしれません。
不安感、恐怖感、依存…某脳です。

 

考えるに、このような煩悩と言われる感情は、ライオンやシカが考えているわけではないと思うのです。
この個体を維持しようとするために、ライオンやシカにあえてそう思わせているのです。

 

例えば、生物には「痛み」という感覚があります。
余計なものですよね。
「足が痛くならなければもっと歩けるのに」
「頭が痛くならなければもっと働けるのに」などなど、邪魔以外の何物でもないように思えますが、

もしも血がドバーーッと出てきて、痛みがなかったら、
めんどくさいから明日にしよう…とかいってほっておくかもしれません。
もちろん気付いた時には死んでいます。

しかし「痛み」があれば、ほっておくわけにはいきません。
何がなんでも、是が非でも安静にしたり治療したりするはずです。

 

体は、生命を維持するために本人の了解を得ずに「痛み」を発動できるのです。
「感情」も同じです。
生命を維持するために、本人の了解を得ずに発動しているのです。
そう考えると、「感情」なんてものは、体の表層に乗っかっているだけのただの操り人形みたいですね。

感情とは煩悩です。
煩悩は、生命体を維持するために備わっている機能なのです。

 

もっと社会が進化して複雑になっても基本は変わりません。

「嫉妬」するのはなぜですか?
…男女の嫉妬の場合はより良い配偶者をゲットして、生命を維持するために
ライバル憎むことで排除する行動を促すためだったかもしれません。

「怒り」があるのはなぜですか?
…逆境を乗り越えるパワーや破壊力を得るため、
「敵」を倒して自分が生き残るためだったかもしれません。

「高慢やプライド」があるのはなぜですか?
…例えば、強い者が群れのリーダーとなって、多くの子孫を残す権利を得られるとしましょう。
「強い者」を周囲に認めさせるために弱くてはいけないのです。
「弱さ」を補う心の心理として「高慢」が生まれます。

 

この辺はもっと掘り下げて説明したいですが、とりあえず先に話を進めると、

「感情」=「煩悩」とは、体の反応の延長であり、
その個体を維持させるために、体が指令を出し、それに振り回されている状態なのです。

「煩悩」によって、生命は自動的に生きながらえる道を辿ることができるのです。

何も考えずとも、湧き上がる感情に任せれば、原始的な生命活動は行えると思います。

 

ですが、基本構造は一緒だとしても、人間の社会はもう少し複雑化していて、
集団としての機能をも維持しなければ人間社会を維持できません。

社会という一つ上位の生命体のことも配慮していかなければ生命を維持しずらい…と考えていいかと思います。

人間社会は、原始動物時代と違って、互いに配慮しつつ自己を維持しなければうまくいきません。
つまり、お互いに配慮する、思いやるということも生命維持に必要になってきたのです。
知的生命体が獲得した、より生き残る可能性の高い生き方が「社会」を作ること。
社会が潰れてしまうと自分も生きられないからです。
「思いやり」や「譲り合い」「助け合い」そんなものも進化した「煩悩」と言えるかもしれません。
「煩悩」というと聞こえは悪いかもしれませんが。

 

しかし、やはり「基本構造」は一緒なのです。

 

「感情」=「煩悩」の目的はただ一つ。生命の維持。

「存在すること」に変わりはないのです。

 

これは「宇宙」の目的と奇しくも同じ。
いいえ。「宇宙」がそうだから「人間」もそうなのです。

 

そのあたりの話はとりあえず置いておいて、
仏教において「某脳」を捨て去ることを勧めているのは何故なんでしょうか。

生きることに必要なのに。
そう思いますよね。

「煩悩」とは自然と湧いてくる感情で、それに身をまかせると気持ちがいいようにできていると思います。
気持ちが良くないとあえてやりませんよね。

「痛み」をほっておくことができにように、
「煩悩」もついついやってしまうほど楽しくて気持ちのいいことなのではないでしょうか。
そうすることで、自動的に生命活動ができるようになっているのだと思うのです。

 

ところが、全く正反対と思われる「苦しみ」も、この「煩悩」から生まれているのです。
ブッダは、「生きる事=苦である」と言っています。
永遠の苦しみから解放される事が「解脱」であり、
「解脱」をするためにはあらゆる「煩悩」を手放さなくてはならないと言っています。

 

「煩悩」=「感情」がなぜ「苦しみ」の原因なのか…。
私はある時「あ、そういう事か。」と思った事があります。

 

例えば…人間の煩悩の一つに「虚栄心」があるとします。
虚栄心…別名「プライド」「誇り」「尊厳」。
そう言い換えると、それは必要なんじゃないか?という気がしますね。

だって、もしも不当に何かを奪われたら…。人間の尊厳を踏みにじられたら…。
平和を侵されたら…。
プライドや誇りや尊厳がなかったら、たちまちめちゃくちゃにされてしまうじゃないか!
…そう思うでしょう。

 

でも、実は…プライドや誇りや尊厳があるから、めちゃくちゃにされたという憤りを感じるのです。

 

もしもそれらを全く持っていなかったら、どんなに奪われても「平気」なんです。

 

無理をして我慢しているのではありません。
我慢している状態は、本当は憤っているのに抑え込んでいるだけです。

 

そうではなくて「平気」なんです。
「平気」だから「平和」で居られるのです。
怒りも湧いてこないのです。
…そういう意味。

 

もちろん、それが正しい訳ではありません。
原理として、そういう仕組みになっているという話です。

煩悩を捨てなきゃ!といって我慢するなんて事は良くないと思います。
それこそ不幸の始まりです。
自分の気持ちを押し殺して我慢しているのは万病の元です!
煩悩が無くなる時は自然にやって来るべきです。

「ああそうですか。」ぐらいにしか思わなくなる訳です。

108つあるとされる煩悩がなくなり、全てに「反応」しなくなったら。
…それはもう「解脱」の時です。

 

生きることに必要な「煩悩」を全く切り離してしまうのだから、
人間としては生きていられなくなりますが、人間としてやるべき事も無くなるのでしょう。

仏教の考えでは、「解脱」した人間は、2度と生まれ変わらないそうです。
そして「無」への道をさらに進んで行くのだと思います。

 

…そういう事なんですね。と、思ったんです。

 

「煩悩」がなくなり、「反応」に振り回されないようになる時というのは
一体いつやってくるのでしょうか。
それはとことん「経験」したあとなんじゃないかと思うのです。

「経験」して成長すると、「反応」に振舞わされることもなくなるのだと思います。

 

修行して解脱しようなんて考えの僧侶を見ると、
まるでせっかく遊園地に遊びに来たのに一つも乗り物に乗らずに帰るようなものだな〜と思っていました。
せっかくこの世に生まれたのに、好きなこともせず、浮かれて失敗したり転んだりもせず、
心静かに瞑想しているだけだなんて…
しかし、もしもこの遊園地に何度も何度も遊びに来た経験があって、もう乗り物も乗りつくし、どれに乗っても何も感じなくなってしまったら。
最初に乗ったような恐怖感も高揚感も何も得られなかったら。
その人はもう乗らずに帰ってもいいし、もう来なくていいと思います。

 

「解脱」しようなんて人は、そういう段階にあるのだと思います。

 

まだまだ「遊びたい」と思う人。
あれに乗ってみたい!これをやってみたい!
そう思う人は、帰ってはいけません!
とことん遊ぶべきじゃないでしょうか。

私はそう思います。

 

ただ、「苦しみ」が起こる原因を知っていれば、
より楽しく遊べるようになるのではないかと思います。

今井宏枝