宇宙のお話05「ビッククランチ」

 

目ギライラスト:今井宏枝(旅うさぎより)

 

ビッグバンする前の状態。宇宙は1点の中に収まっていたらしいですね。
おそらく、それは「無」という状態なんだと思います。
まだ何も生まれていない、発生していない。
しかし、その中に全て「有る」状態です。

それが0次元です。
縦も横も幅も何もないわけですから。

それが、ビッグバンと同時に1次元になり、2次元になり3次元になり…
といった具合に増えていったのでしょう。

現在の観測では、宇宙は未だ「膨張」を続けているそうです。
ハッブルが1920年に「膨張」を発見したのだそうです。
星と星の間の距離が徐々に広がっているということから、そう推察されるようですね。

しかし、やがて宇宙の「膨張」は止まり、今度は「収縮」が始まり、
今まで来た道を辿って「無」へと向い始めるというお話です。
それを「ビッククランチ」と呼び、ビッククランチした後、再びビックバンするという「振動」が永遠に続く。
振動宇宙論と言われているようです。

 

この状態が、ミクロとマクロの相似する関係により、人間にも当てはまると考えます。
おぎゃあと生まれて、成長をし、やがて成長が止まったかと思うと老いが始まり、やがて「無」へと帰ります。

持論ですが、全次元で同じことが起こっているとするならば、この相似もすんなり納得できます。

宇宙で起こっていることが人間にも起こっているということです。

 

ここでもう一つ言いたいのは、
逆に、人間に起こっていることが宇宙でも起こっているということです。

「無」のことを考えているうちに、面白いことを思いつきました。

「自分」を観察すれば、「宇宙」がわかるということではないか?
人間の有り様を観察すれば、宇宙で何が起こっているかわかるのではないか?
ということです。

 

ビックバンした宇宙の次元は、徐々に増えていきました。
人間も同じで、おぎゃあと生まれた瞬間はまだ何物でもありません。
自分を表す座標軸が全くない(訳ではないのですが例えとして)です。

それが歩けるようになって、成長して、学校へ通い、高校生になったとしましょう。
彼はその時、英語の成績が良いという座標軸と、サッカーをしているという座標軸と、映画が好きという座標軸を持つようになりました。
座標軸が増えれば増えるほど、多角的から彼のポジションを把握することができ、より深みのある人物となっていきます。

スポーツ観戦がが好きだ!という座標軸の他は一切よく分からない…なんて人間がいたら
きっと「単細胞ね」とかなんとか言われちゃうでしょうね。

座標軸は、成長によって増えます。
宇宙で言えば「膨張」にあたります。

物理学の定説を全く無視して言えば、宇宙が「膨張」しているのなら、
今現在も次元は増え続けているということにならないでしょうか。

 

そのように「成長」を続けていた彼が、60歳を過ぎ、体に衰えを覚えるようになってきました。
もうサッカーは出来ないな。
英語の勉強もそろそろ終わりにしようか。
今は映画よりも静かに本を読んでいる方がいいな…。などなど、
徐々に座標軸を減らして行きませんか?

これは決してネガティブな事ではありません。
「成長」のためにしていた事が必要ではなくなり、
自分の「これだ」という一番必要なものを残して余分なものを捨てているのです。
徐々に厳選された座標軸だけになり、やがては死を迎え、「無」となります。

 

これが
宇宙でも起こっているとしたら、宇宙の膨張が止まり、収縮が始まると、徐々に次元数が減って行き、やがては0次元に戻る。そういう事になるのではないでしょうか。

 

こういった事を、人間社会に当てはめていくと、実に面白い類推ができます!

 

今、宇宙は「成長」しています。
個人ばかりではなく、人間社会全体も、今は「成長」していると考えます。
「成長」に必要な事を求めている時期なのです。

 

「成長」に必要な事とはなんでしょうか。
それは「体験」や「経験」だったりしますよね。

前回のブログでも書いたように、人が成長するとき、その人は何を感じているでしょう?
おそらく「欠乏感」です。

自分にはあれがない、これが足りない、ああなりたい!こうなりたい!
人は、その思いで「成長したい!」と感じるのではないでしょうか。

成長したいと思った人は、いろいろな事にチャレンジし、失敗をしたり、それを乗り越えたり挫折したり、
その結果それを手にして感動したり、喜んだり、悲しんだり様々な体験をします。
そうするうちに、「成長」しているものではないでしょうか。

人間社会全体も「成長」しているとするなら、今は「欠乏感」を感じながら、様々なことにチャレンジし、体験を積み重ねている時期ということになります。

 

逆に言えば、成長するためには「欠乏感」が必要なのです。
成長に必要な「欠乏感」とは、どうやったら発生するでしょうか。
「欠乏」を感じるためにはまず、「個人」「自分」という世界から切り離された存在が必要じゃないですか?
それに加え、「悲しみ」やら「焦り」やら「怒り」やら「プライド」やら
そういった「煩悩」と言われるものが必要ではないでしょうか??

試合でけちょんけちょんに負けた!
悔しい!惨めだ!
見返してやりたい!
弱い自分を変えて、勝者になりたい!

こんな思考が働いていると思います。
自分に「ない」ものが出てきましたね。

「強い自分」「認められる自分」「勝者である自分」
それらが「欠乏」し始めたのです。

 

試合などせず、瞑想をしながら暮らしていれば、そんな「欠乏」は生まれませんでした。
しかし、「成長」する切欠も発生しないということになります。

 

 

私は昔から、ある疑問を感じていました。
立派な人間になるには、欲を捨て、傲慢を捨て、求めず、いつも平穏な自分でいること。
そんな概念がありました。

でも、未熟な自分が成長するためには、
あんな自分になりたい、これができたらカッコイイ!
負けたくない!
そんな感情が切っても切れない関係にあると感じていました。

 

「成長」なくして、どうして立派な人間になれるでしょうか。

もしも、今が「膨張期」で、「成長」する時期であれば、
とことん「煩悩」を膨らませて「欠乏」を生み出すべきだということにならないでしょうか。

 

一体どっちなんだ。

やるべきなのかやらざるべきなのか!?

この矛盾がずっと謎だったんです。

 

しかし、宇宙の「膨張期」と「収縮期」という考えに至った時、
「そうか〜〜〜!」とめちゃめちゃ納得できたのです。

 

仏教で言うところの「煩悩」を捨てる修行とは、
やがて「無」に至るための「収縮期」の成長段階にあったのだと思います。

 

次回は、この話をもっと詳しく書きたいです。

 

今井宏枝