宇宙のお話13「前世の記憶」

 

寝る370

イラスト:今井宏枝(旅うさぎより)

 

私は「前世」はあると思います。

 

前回書いたように、
肉体は「無常」である物質世界にあり、
意識(または霊体とか幽体)は「普遍」の物質界外にあるとしたら、
肉体がなくなってしまっても意識の方は続いてるわけです。

 

その意識が、どういうシステムか知りませんが再び「肉体化」したら、
当然「意識」の方は前回の続きなわけですから何かしら痕跡があっても不思議ではありません。

 

でも、そう考えると私たちが思う「あの世」にも、「原因」と「結果」の繰り返しの法則が働いているのだなと分かります。

例えば、あるところに若者がいて、水に溺れて死んだとします。
この若者の意識に「水が怖い」という情報が叩き込まれたとします。

この若者が再び生まれて来て、全くの別人として育ち安全に生活しているにも関わらず、
何となく理由もないのに「水が苦手」という感覚がある。なんてこともあるかもしれません。

たとえ肉体の脳に「記憶」がなくても、意識の方は変わらず残っているので
なんとな〜く感じるのかもしれません。

 

水で溺れたから水が怖いという「原因」と「結果」が、
生き死にを乗り越えて持ち越されているのです。

 

同じ環境で育った兄弟でも、得意なことや苦手なことが全く違ったり、大人びている子もいれば子供っぽい子もいろいろいますね。
それは生まれてからの記憶だけじゃない何かがあるから…と考えると、逆にしっくりします。

まぁ、そうだよね〜と思います。

 

でもそう考えると、いかに肉体の「脳」で考えていることのウエイトの方が大きいかが分かりますね〜。
「意識」の方の記憶なんて気がつかないくらい微かですね。

それでも何となく好きな物とか嫌いなものとか、継承しちゃってるのかな〜。

 

人間社会がずっと続いているのも、
人類が誕生してから脈々と受け継がれてきた観念や概念が残っているからこそで、
ローマ時代と現代がそれほど理解に苦しむほどの概念的な違いがないように思われるのもそのせいかもしれません。

縄文時代や石器時代の話を聞いても、なるほどねと理解できるじゃないですか。
これがもし、「意識」も肉体の死と共になくなり、その都度まっさらで生まれていたら、
もっと考えつかないような様々な形態の文化風習があったかもしれませんね。

 

前回書いたように「意識」は変化が苦痛です。
なので、前世でやっていたことや習性を今世でも継続しようとしているかもしれませんね。

 

昔から誰に教わるでもないのに楽器の演奏はできた。とか
走るのは苦手だけど水泳はできた。とか
料理しようとしても全く手際が分からず見当もつかないという人もいれば
感覚でなんでも作れてしまう人もいます。

好き嫌いも、全く理由がないのにありますよね。
自分の「意識」の方へ注目してみるのも面白いかもしれません。

 

…。

 

ちなみに私は理由もなく「金塊」が好きです(笑)

そう言うと「誰でも好きだわい」と誤解されると思いますが、
金の価値が好きなのではなく、「金」という物質が好きなのですよ。

子供の頃はよく、紙粘土で小判を作って金色の絵の具で塗ったり、
ボール紙に金の折り紙を貼り付けてコインを大量生産してクラスメイトに配り、クラス内の通貨にしたりして遊びました。

誕生日会の飾りつけには、チェルシーの空き箱に金の折り紙を貼り付けて「金塊」にしたものを沢山作り、壁に飾りつけました。

コインチョコレートは大好物。
あれは最高です。たまりません!
買ってもらうと、コインとコインをぶつけたときの音や感触を楽しんだり、床や机に落としてみたり。
しばらくの間楽しんでからやっと食べてました。

 

飽くなき「金塊」への興味!
どれも小学低学年頃のお話です。

 

その時どんな気持ちだったか思い出して書いてみますと、
決してお金持ちになった喜びへの興味ではないんですよ。

「金」の感触うっとり〜
なんて綺麗なんだ〜
この色、輝き、音!
もう最高!!!

 

そんな感じでした。
もちろん本物じゃないので、その感触は「妄想」により補っていましたよ。

考えてみれば本物の「金」に触ったこともないのに「感触」はリアルに想像できてるっぽいのも不思議な話ですね〜。

 

家庭内で「金塊」の話題が出たことなどありませんし。
私は一体どこからそんな習性を身につけたというのでしょうか??

 

それにしてもこれが前世の記憶だったとして、
私は一体何をやってたのでしょう…

 

 

今井宏枝